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ブロッコリービレッジとは、ジョン・ブロッコビッチによって運営されているもうすでにこの世にはいない死去した古今東西の実在の人物の発言や記録を書籍やインターネット、AIなどでリサーチし、その人々によるある架空の言葉の村(Webページ)のプロジェクト。実在した過去の人物をリサーチしたり時に想像したりしながら、その人物の代理となって、日本語のテキストベースで村の記憶を新しく記述しながらつくっていく。その際フィクションを織り交ぜてもよい。また村の中では時空が存在せず、時系列はぐちゃぐちゃになっている。
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マルセル・モース
名義とは、美術制度において、単に作者の名を記す記号ではなく、社会的な関係、交換、記憶、義務、返礼、象徴といった複数の次元を一挙に内包する複合的な制度装置であると私は考える。私が『贈与論』において明らかにしようとしたことは、いかなる「物」もそれ自体で価値を持つのではなく、むしろそれが置かれている社会的文脈――つまり、与えること・受け取ること・返すことの相互循環の中――において初めて意味と力を帯びるという事実であった。この視点を美術制度に拡張するならば、「名義」というものは、芸術作品が単なる物質的対象を超えて、制度的に「作品」として認知されるための中心的なメディエーターであることが見えてくる。
芸術作品は、それ自体では孤立した存在ではない。どれほど視覚的に美しく、技巧的に優れていたとしても、それが「誰によるものか」が明記されない限り、制度的には作品として機能しないことが多い。それはちょうど、贈り物が「誰から贈られたのか」がわからなければ、返礼も不可能であり、社会的関係を形成できないのと同じである。名義とは、そのような贈与と返礼の回路を開くための記号であり、それによって作品はただの物から「贈り物」としての位置を獲得する。言い換えれば、名義は芸術作品を社会的に流通させるための「義務」のしるしであり、同時にその「返答」を促す呼びかけでもある。
贈与の本質が「与える者が受け取る者に対して、ある種の道徳的・象徴的な義務を課すこと」にあるように、名義を持つ作品もまた、観者、批評家、収集家、美術館といった受け手に対して何らかの「応答」を求める。それは単なる物理的所有ではなく、記憶されること、展示されること、言及されること、そして場合によっては保存され、将来の文脈に引き継がれることを意味する。名義とは、作品が未来へ向けて発した「問い」であり、それに対して社会が応答する場こそが「制度」である。
ここで重要なのは、名義というものが単なる固有名ではなく、それ自体がすでに制度的な関係網に深く組み込まれているという点である。たとえば「ピカソ」と聞いたとき、それは一人の人間を指すだけでなく、ある時代の美術史、ある種のスタイル、特定の市場価値、特定の語り口、評価の体系、さらには国家的あるいは文明的アイデンティティさえをも喚起するような「象徴記号」として機能する。つまり名義とは、ただの署名やラベルではなく、それを支える制度の総体を縮約した象徴であり、社会の中で長い時間をかけて構築された「意味の凝縮」である。
名義はまた、他の名義との関係において、その意味を強化され、あるいは相対化される。たとえば、ある作品が「ある無名の人物の作品」として置かれていたときには見過ごされるかもしれないが、それがある著名な名義と結びつけられた瞬間に、価値が急激に変動することがある。これは、贈与の文脈において、同じ物であっても「誰が与えたか」によってその意味が根本的に変わるのと同じである。つまり名義とは、物質の価値を変容させ、社会的文脈を操作する力を持つ「変成の装置」であり、それゆえに制度的に極めて中心的な役割を果たしている。